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永井荷風 「断腸亭日乗」上 岩波文庫による
1918年11月21日 19 欧州戦争平定の祝日 浅葱色の仕事着着たる職工
1919年７月朔
30 独逸降伏平和条約記念の祭日 工場銀行皆業を休みたり 国旗 花火
祭の夜とでも称すべき小品文 一個の逸民と時代一般との対照
31 市民の生活 醜陋 個人の覚醒せざることは封建時代のむかしと……
47 亡国の悲愁
1923年10月３日
69 帝都荒廃の光景 山師の玄関 愚民を欺くいかさま物 近年世間一般奢侈驕慢、貪欲飽くことを知らざりし有様 外観をのみ 百年の計 自業自得天罰覿面
192６年正月12日
107 桜川町の女 お富 放蕩無頼なるわが身 お澄
108 家に妻妾を蓄る時は 化粧品の臭気
156 女給お久 五百円 お米とおてんと様
157 壺中庵 八幡町の路地裏 お歌
171 生まれながらにして進取の精神なく奮闘の意気なく 現代の婦人 可憐なる女
178 無産党員 幕府瓦解の時代と 乱世にあって身を全くするには
1928年５月6日 181 日々共産党員の検挙 忽然天保のむかしにある
185 松莚氏 魯西亜労農政府の招き 暴力団 警察 新聞
1928年12月6日 189 愛国党の無頼漢 共産党々員捕縛の記事のみ 慶応義塾の学生
194 日本魂 忠君愛国 国家主義 邦家の基礎
198 文士画工及政治家の心中野卑なること最も甚しきが如し
202 政治家の廉恥心なきこと
社会公益の事に名を託して私欲 偽善 男子変節の害に比すれば女給踊子の密に淫を売るが如きは言うに足らず
**昭和現代の世はさながら天保新政の江戸を見るが如く官憲万能にして人民の従順なること驚くに堪えたり。
193１年11月10日
233 陸軍将校の一団 満州事変起こりて以来かくの如き不穏の風説
今日わが国政党政治の腐敗を一掃し、社会の気運を新にするものは 武断政治 永続すべきものにあらず 旧弊を一掃し人心覚醒せしむるには大に効果あるべし
満州出征軍人野営の状さまを活人形に 白木屋店頭 号外
242 朝日新聞 陸軍省 在郷軍人会 資本家 軍閥謳歌をなすに至る 脅嚇取財
244 上海攻撃の写真 軍歌 思うにわが国は永久に言論学芸の楽土にはあらず。わが国民は今日に至るもなお往古の如く一番槍の功名を競い死を顧みざる特種の気風を有す。また奇なりというべし。
248 建国祭 祭日の増加 笄ｹｲ阜
251 日清戦争以来 百戦百勝は善の善なるものにあらず 戦ずして人の兵を屈するは
252 日本現代の風俗習慣殆ど亜米利加風になりたれば
255 血を見ることを好むは日本人の特性なるべし 日本人の猛勇なること野獣の如くなるも
262 英国 平和に托するは偽善 罪悪
282 流行唄の盛衰 ヨウヨウ コリントゲーム
300 当世青年男女の用語
314 増税問題 人心恟々 天保改革 筆禍を蒙むることなきを 奥羽飢饉救助義捐金
昭和10 7月25日 325 浪花節 ラジオ
326 陸軍省内 刃傷 永田少将 中佐某 麻布三連隊の兵士200人ばかり
342 女一覧 [記録魔]
344 相澤
基督教の文明と儒教の文明 日本現代の禍根は政党の腐敗と文人の過激思想と国民の自覚なき事 個人の覚醒は将来においてもこれは到底望むべからざる事なるべし
昭和11 2月27日 349 この日新聞には暴動の記事なし
352 屈原 世を憤りしが人を殺さず、詩賦を貽して汨羅の鬼となりき。
[1行抹消行間補]現代日本人の暴悪残忍なるは真に恐るべし 邦人の残忍 この世 さながら地獄の如く
353 玉の井見物の記
358 忘れちゃいやよ
359 7月12日 欄外朱書 陸軍士官代々木原ニテ死刑執行ノ報出ヅ
359 8月19日 蓄音機店 男女蝟集し 流行歌 とんがらがっちゃだめよ 日本よい国 などを傾聴す
360 9月7日 今年三、四月のころより 玉の井 女はもと州崎の……[墨東綺譚]
363 九月二十日 この町を背景となす小説の腹案 [欄外朱書]「墨東綺譚」起稿
364 九月二十三日 朝日新聞社拙稿を新聞に連載せむか、排撃の声 掲載中止の厄に遭うべし
365 年々民衆一般の趣味及社会の情勢を窺い、今は拙稿を公表すべき時代にあらずと思えるなり。
十月四日 墨東陋巷の女
十月六日 二十一、二才の女新に 雇婆
十月七日 命名して『墨東綺譚』となす。
十二月三十日 貧家の娘 酌婦とならんとするなるべし 若き職工風の男 その妻らしき女に……凡てこのあたりの街上のさま銀座とは異なりて何ともつかず物哀れにて情味深し
『断腸亭日乗』下
昭和十二年(1937年)丁丑正月元日 荷風山人五十九
8 一月十六日『墨東綺譚』の草稿を渡す
11 四月十五日 欄外朱書 『墨東綺譚』コノ日ヨリ『朝日新聞』ニ連載
12 四月三十日 余と威三郎との関係 母上の臨終及葬式にも威三郎方へは赴くことを……
22 八月二十四日
東京住民の生活 相応に満足と喜悦 軍国政治に対しても更に不安を抱かず、戦争についても更に恐怖せず、むしろこれを喜べるが如き状況なり。
22 九月八日 民衆歓呼の声
23 九月九日 母上昨夕6時こと切れたまひし由
23 九月十三日 芝山内 写真機 憲兵に…… 『墨東綺譚』5000部印税1470円
24 十月四日
熱海の某旅館 党人 ピストル 冷やかに笑い 刑事 賞与 刑事職を辞し
戦地 出征の兵卒中には精神錯乱し戦争とは何ぞやなど譫語を発するもの尠からず。それらの者は秘密に銃殺し表向は急病にかかり脂肪せしものとなすなり。[以下6行弱抹消]
28 十一月十六日
今年梅雨のころ起稿せし小説『冬扇記』は筆すすまず。その後戦争起りて[この間一行抹消。以下行間補]見ること聞くこと不愉快ならざるはなく[以上補]
29 十一月十九日
…………売店の女また女子事務員などの通勤するさまを見るに新調の衣服(和洋とも)を身につくるもの多し。東京の生活はいまだ甚だしく窮迫するに至らざるものと思わるるなり。戦争もお祭りさわぎの賑さにて、さして悲惨の感を催さしめず。要するに目下の日本人は甚だ幸福なるものの如し。
30 十一月二十一日 ……オペラ館の通俗卑俚かえってよろこぶべし。
33 『おかめ笹』岩波文庫校正摺閲了 浅草公園 中西屋 珈琲 15銭 ハトヤ喫茶店 珈琲 5銭
昭和十三〔一九三八)年 戊寅
39 三月十六日 歌劇台本『葛飾情話』執筆 暁明に至る
三月十九日 『葛飾情話』の稿成る
45 オペラ館 アルト 永井智子 5月17日 初日 意外の成功
47 映画構成の相談
船の上
さすらひの身をな嘆きそ/人の世は/ゆらるる夢のさだめなし。/……
涙
泣かねばならぬ悲しい事も/泣くならせめて二人して。//……
58 八月八日 水天宮裏の待合叶屋 主婦
……軍部の人の勧めにより北京に料理屋兼旅館……（以下三行弱抹消）世の中は不思議なり。軍人政府はやがて内地全国の舞踏場を閉鎖すべしと言ひながら戦地には盛に娼婦を送り出さんとす。軍人輩の為すことほど勝手次第なるはなし（以上行間補）。
昭和十四（一九三九）年
68 二月十九日日曜日晴後に陰。
……オペラ館演劇『花と戦争』と題する一幕憲兵隊より臨検に来り上場禁止せられし由 浅草の踊子戦地へ慰問に赴き昔馴染の男
72 六月三十日。
……谷中氏の談に昨日警察署の刑事オペラ館楽屋に来り、楽屋頭取に向ひオペラ館楽屋に出入りする人物の如何を質間して去りし由。……
金品申告書 吾妻橋の上より水中に投棄せしに、……
＊ 七月初一旧五月十五日暑し。
……晩間再び吾妻橋の上より浅草川の水に投棄てたり。むざむざ役人の手に渡して些少の銭を獲んよりはむしろ捨去るに若かず。
74 七月八日。
……昨夜 公園の飲食店はいづこも混雑甚しく十時過ぎても客の出入絶えやらず。酒を飲むものも多かりしといふ。
銀座西二丁目辺裏通にて陸軍士官一人通行人と口論をなせし最中、何人とも知れず後より士官の佩刀を抜きて持逃げせし者あり。
74 七月十日。排英演説会の立札を見る。文久年間横浜焼打のころの世に似たり。
75 八月十三日 国木田独歩の小説販売禁止。また『ハムレット』上演禁止となりしといふ
75 八月甘八日。
有楽町省線停留場 恋の出会をなす男女幾組もあり。掲示用の黒板……商店の売子にあらざれば喫茶店の女給らしき洋装のもの多し。〔この間三行弱切取〕平沼内閣倒れて阿部内閣成立中 独逸国が突然露国と盟約を結びしがため 通行の若き女等は新聞の号外などに振返るもの一人もなし。浅草オペラ館 一昨日までヒトラーに扮して軍歌を唱ふ場面ありしが、昨夜警察著よりこれを差留めたりとの事なり。〔以下六行弱切取］
＊ 八月十九目。
英国排撃の札いつの間にやら取除けられたり。日独伊軍事同盟即時断行せよまたは香港を封鎖せよなど書きしものその種類七、八様もありしが皆片付けられたり。これと共にソ聯を撃てといふ対露の立札もまた影をひそめたり。〔この間二行弱切取〕。
76 九月初一旧7月18日晴また陰。
この日また禁酒禁姻の令あり。ラヂオ頻に君が代を奏す。
＊ 九月初二。
独波両国開戦 ショーパンとシェンキイッツ の祖国に勝利の光栄あれかし。
＊ 九月十四日。
浅草の米作 一汁三菜にて一人前大低二、三円 客の風采 小商人または小工場の主人らしきもの多く、その中には家族づれにて酒盃を傾るものもあり。この有様は戦争の禍害を示すものにあらずむしろその利福を語るものなるべし。
＊ 九月十五日。
……女の事務員売子ら 薄暮の涼風短きスカートと縮らしたる頭髪を吹き飜すさま 余は現代女子の洋装を以て今は日本服のけばけばしき物よりも遥に能く市街の眺望に調和……安ッぽききれ地の下より胸と腰との曲線を見せ、腕と脛とを露出して大道を潤歩するその姿は、薄ッペらなるセメントの建物、俗悪なるネオンサインの広告、怪し気なるロータリーの樹木草花などに対して、渾然たる調和をなしたり、これを傍観して道徳的悪評をなすは深く現代生活の何たるかを意識せざるが故なり。[ 以下一行半切取]
〔欄外朱書］独露両国ノ兵波蘭土ヲ占領ス。
77 九月二十一日。
この夜尾張町のあたりに酔漢多く、〔この間約半行切取。以下行間補〕軍人の往々女子を携ふ〔以上補〕るを見る。醜態憎むべし。……今日昭和戦勝国の酔漢を見るに、一世紀以前の状態と更に異るところなし。兇暴なる行為はかへつてそれよりも甚しくなれり。（以下八行弱切取）
78 九月念五。晴。
……電車の内にて酔漢の嘔吐するもの二人あり。女車掌これを見るや直様袋に入れたる砂を持来りて汚物の上にまきちらすなり。……世界中いづこの街にもかくの如き乗客を見ることは稀なるべく、かくの如き準備をなせる車を見ることもまた絶無なるべし。（以下三行強切取〕余はかくの如き醜態を目撃する毎にこの民族の海外に発展することを喜ばざるものなり。〔以上欄外補）
79 十月十八日。 晴。
……本年は石炭欠乏のためガスの使用制限せらるべしとの風説あり。夕刊の新聞紙英仏聯合軍戦ひ利あらざる由を報ず。憂愁禁ずべからず。
82 十一月三十日。晴。
昼頃炭屋の男来り炭いよいよ品切となりたれば炭団練炭を炭にまぜてお使なされたしとて炭俵と共にそれらの物を運び来れり。炭は土釜炭にて一俵の公定値段弐円四十銭なりといふ。さらば一俵につき運搬賃として別に壱円を加へて支払ふべし。それ故年内に二、三俵さがして持来るべし。いづれも現金にて買ふべしといふに、炭屋よろこぴその値段ならば二、三日中に差上げますとて帰りぬ。
＊ 十二月初一 本日より白米禁止 わが家の米櫃には幸にして白米の残りあり。今年中は白米を食ふことを得べし。〔欄外朱書〕露軍芬蘭土に入る。〔欄外朱書〕精白米ヲ禁ズ。
＊十二月初二。
銀座食堂にて 半掲米の飯 あたりの客の様子を見るに、皆黙々主としてこれを食ひ毫も不平不満の色をなざず。〔以下十三行半切取画一行抹消〕国民の柔順にして無気力なることむしろ驚くべし。畢竟二月甘六日軍人暴動の効果なるべし〔以上欄外補〕。
昭和十五年（一九四〇）年 昭和十五年歳次庚辰 荷風散人年六十二
83 一月七日。
……尾張町三越にて葡萄酒 舶来品は拾円以上となりたれば、和製一壜金弐円石鹸歯磨等 和製のみとなれり。わが家 英国製シャボンなほ十個位 酒類もキュイラッソオ、ブランディ、オリイブ油など各一壜ウーロン茶は三、四斤位のたくはへあり。
84 一月八日。
……昼飯の時昨日購ひたる和製葡萄酒をこころみるに稀薄水の如く滋味更になし。壜の形とレッテルの色のみ舶来品に似たるも可笑し。午後物買ひにと銀座に行く。煙草屋にもマッチなき店次第に多くなれり。飲食店にて食事の際煙草の火を命ずる時給仕人マッチをすりて煙草に火をつけ、マッチの箱はおのれのポケットに入れて立去るなり。
85 一月十四日。
〔欄外朱書）夜内閣更迭の号外出づ。〔欄外朱書〕学生の飲酒を禁ず。
90 五月初一 晴。
……黄昏土州橋医院に至る。院長余が自炊の生活過労のおそれありとて頻に入院静養の必要を説く。浅草に行かむと思ひしが院長の忠言を思起し銀座を過りてかへる。余が下女を雇はず単独自炊の生活を営み初めしは一昨々年昭和十二年立春の日よりなれば満三年をすごせしなり。
＊五月初二。晴。
午後平井君来話花村に体して銀座を歩む。疲労甚しく全身に水腫あり。昭和三年頃の病状に似たり。
＊五月初三。晴れて風あり。
＊五月初五
……銀座辺の噂に、本月一日例の興亜何とやらと称する禁慾日にて、市中の飲食店休業す。芸者も休みなり。女どもこの日を書入れとなし市外の連込茶屋また温泉宿へ行くもの夥しく、殊に五月の一日は時候もよき故遊山の女づれ目に立ちしかば、警察署にては女給芸者等を内々に取調ベ、当日遊山に行きしものは営業停止の罰を加へんとすといふ。（以下十一行強切取）巡査等の目には人の遊ぶのがよくよく羨しと見えたり。人の遊ぶのはその人の勝手ならずや。彼らは袖の下さへ当てにすればよきに非らずや。（以上欄外補）
＊五月十六日。
……余は日本の新聞の欧洲戦争に関する報道は英仏側電報記事を読むのみにて、独逸よりの報道（この問約八字切取。以下行間補〕また日本人の所論は（以上補）一切これを目にせざるなり。今日の如き余が身に取りては列国の興亡と世界の趨勢とは縦へこれを知り得たりとするも何の益するところもなくまた為すべきこともなし。余は唯胸の奥深く日夜仏蘭西軍の勝利を祈願して止まざるのみ。ジャン・ダルクは意外なる時忽然として出現すべし。
＊五月十八日。晴。
……号外売欧洲戦争独軍大捷を報ず。仏都巴里陥落の日近しといふ。余自ら慰めむとするも慰むること能はざるものあり。晩餐もこれがために全く味なし。燈刻悄然として家にがへる。（欄外朱書）白耳義国王独軍門二降ル。
＊五月三十一日。
……（この問二行切取。以下欄外補）独軍の勝利につれ日本新政府の横暴益甚しからむことを慮り岩波より〔以上補）出版すべき余が全集中には『冷笑』『監獄署の裏』の如き作品は刪除して収截せざることとせり。明一日には市中の芸者止遠出する事を禁ぜらる。
（欄外朱書）伊国参戦。
＊七月五日。水天官賽日の賑ひ時局に関せざるは喜ぶべし。（以下十九行強切取）
＊七月六日。快晴。
奢侈品制造及売買禁正の令出づ。但し外国へ輸出しあるいは外国人に売りて外国の金を獲得することは差支なしといふ。（この間二行弱切取。以下欄外補）然れば西洋人を且那にして金を取ることは愛国的行為なるべく明治峙代にありし横浜の神風楼は宜しく再築すべきものならむ（以上補〕。そはともあれ江戸伝来の蒔絵彫金の如き工芸品の制作または指物の如きものはこの度のお触にていよいよ断絶するに至るべし。かくの如き工芸品の制作は師弟相伝の秘訣と熟練とを必要となすものなれば一たぴ絶ゆる時は再ぴ起らざるものなり。
〔欄外朱書）奢移品制造並二販売蔡止ノ令出ヅ。
＊八月初一。
正午銀座に至り銀座食堂に●（はん）す。南京米にじやが芋をまぜたる飯を出す。
この日街頭にはぜいたくは敵だと書きし立札を出し、愛国婦人連辻々に立ちて通行人に触書をわたす噂ありたれば、その有様を見んと用事を兼ねて家出でしなり。……今日の東京に果して贅沢と称するに足るべきものありや。笑ふべきなり。
[欄外朱書]賛沢ハ敵也トイフ語ハ魯西亜共産党政府創立ノ際用タル街頭宣伝語ノ直訳也トイフ。
＊八月念一。
……夜王の井を歩む。例年なれぱ今宵の如き溽暑の折にはひやかしの雑沓すること甚しきが常なるに、今年七月頃よりその筋の取締きぴしく殊に昨今連夜の如く臨検あるがため、路地の中寂寞人影少し。されど遊客は拾円弐拾円位つかふもの多く、商売は以前の数こなしよりも楽にて収入も多き由。女のはなしなり。
＊八月廿四日。
来月朔より市中料埋店膳部の値段きまるといふ。これがため市中にはむかしの八百善伊予紋などにて出したる二ノ膳付の会席料理はその跡を断つことになるなり。余震災後の事は知らねど大正十年頃までの経験を思起すに、築地の茶料理喜多の家四、五円、竹川町花月七円位、代地河岸深川亭五、六円、山谷鰻屋重箱、日本橋の小松あたりいづれも四、五円なりしが如し。当時大正のはじめ新橋芸者一時間玉祝儀共五円なにがしと記憶せり。銀座風月堂洋食壱円五拾銭それより弐円五拾銭となれり。牛肉屋は上等の店にて五拾銭あれば満腹なり。銀座七丁百の仏蘭西人洋食屋参円にて無類の珍味なりしが第一次大戦にて閉店したり。往時茫々都て夢のごとし。
＊八月念九。
……夕刊新聞紙に馬場先外帝国劇場九月かぎり閉場。その後は何やら官庁になるといふ記事あり。
100 九月二十一日
銀行預金引出しもやがては制限 世の中は遠からず魯西亜の如く この8月以来 人心恟々、怨嗟の声日と共に激しくなり行くが如し。
＊九月二十三日 三国同盟 侵略不仁の国と盟約 国家の恥辱 儒教の衰滅せるによる
＊十月三日 「旧約聖書」仏蘭西近世語訳本 今俄にこの事あるは何のためぞ。[この間１行弱切取]
102 十月五日 銀座の洋服屋 冬外套 当月7日を限り洋服の売価制限せらるるがためなり。
日本服呉服物も同じく定価附け 目下投売り 300円位のもの8,90円
[欄外朱書]河合教授無罪ノ判決アリ
＊十月十日
[欄外朱書]帝国大学慶応大学々生各数十名共産党嫌疑ニテ捕ヘラル。新聞ニハコノ記事ナシトイフ。
104 十月十五日
時局迎合の記事論説読むに堪えず。文壇劇界の傾向に至ってはむしろ憐憫に堪ざるものあればなり。
105 虫の声
何とて鳴くや/庭のこうろぎ夜もすがら/……
こうろぎは死し/木がらしは絶え/ともし火は消えたり。/冬の夜すがら/われは唯泣く一人泣く。
＊十月十八日
日本の学童と交るようになりて……行儀甚わるくなれり。 〔この間約16行強切取。以下欄外補〕日本人の教育を受くれば人皆野卑粗暴となること……余が日本人の支那朝鮮に進出することを好まざるは悪しき影響を亜細亜洲の他邦人に及すことを恐るるが故なり。〔以上補〕
107 [欄外朱書]昭和七年暗殺団首魁井上橘出獄。
十月廿一日
書店営業者 内閣情報部に出頭 掛りの役人（この間約九字切取。以下行間補）の他に二人の軍人剣を帯ぴて出で来り（以上補〕陽には忠節とやらを説き聞かせ、陰に不平反対することを許さざる勢 いかなる店が配給所として残り、いかなる店が閉店 世の中はいよいよ奇々怪々となれりといふ。左の如き偶成一篇を得たり。
昨日の雨けさの風。/河岸の柳は散つてゐる。/燕の群よ。旅の仕度はもうよいか。/冬の来ぬ中お前たちは南へ行く。/時候は変る世はかはる。// …………
わたしたちはどうしよう。/家族をつれてどこへ行こう。/時節は変る世はかはる。/燕の群よまた来る春にお前たちのまた来る時。お前たちの古巣はもうあるまい。//
…………
110 十月甘四日。
ヴェルレーヌが詩篇中の『サジュス』 戦乱の世に生を偸む悲しみ 詩篇の体を取るがよし 散文にてあらはにこれを述べんか筆禍忽ち来るべきを知ればなり。
〔欄外失書〕九段参拝の群集にまぎれ十六歳の女学生掏摸をはたらき捕へらる。
＊十月三十日。
〔この間約四字切取。以下行間補〕専制政治（以上補）の風波 操觚者の生活 文学者と活版職工との差別は唯机の上にて紙に宇をかくことと工場にて活字を拾ふ事との相違あるに過ぎざるに至りしなり。哀れ果敢きかぎりならずや。今入会勧誘の手紙の甚滑稽拙劣なる一例（前文略）もともと時局に処するための文学者の運動……文学そのものの大使命 文学報国の真意義……余笑つて曰く、もしこの文言の如くにならむと欲せばまづ原稿をかく事をやめ手習でもするより外に道はなし。
112 十一月初四。
二月廿六日叛乱の賊徒及浜口首相暗殺犯人悉出獄放免せられしといふ。
＊十一月十六日。
炭配給券 以前の如く親切に炭は切りなどせず俵のまま門口に置き認印を請ひて去れり。……水天宮門前に花電車数輛……現在東京に居住するものの大半は昭和十年以後地方より移り来りしもの……今回の新政治も田舎漢のつくり出せしもの 仏蘭西革命また明治維新の変などとは全く性質と品数とを異にするものなり。
113 十一月二十日。
銀座西側だけにて徴兵に出るもの今年は百七拾人あり。ほどなく南京あたりへ送らるる由。丁年者の体格今年は著しく悪しくなりたりとて検査の軍人ども……
＊十一月廿三日。
麻布区内にて米穀配給所といふ事にて纔に閉店失業の悲運を免れし店五軒……その他数十軒の米屋は皆店を閉ぢ雇人は満洲に行きて百姓になるべき訓練……また米穀は警察署の印判……この度の改革にて最悲運に陥りしものは米屋と炭屋なるべく、昔より一番手堅い商売と言はれしものが一番早く潰され、料理屋芝居の如き水商売が一番まうかる有様何とも不可思議の至なりと。右米屋の述懐なり。
＊十一月廿五日。（欄外朱書〕西園寺老公薨去。
町の噂
熱海温泉宿 二二六民問側犯人の中、過日大赦出獄せしものの一人某、熱海のスターホテルに二週間あまり宿泊 毎夜土地の芸者十余名 宿賃は食事附一日七円のところそれでは安過るとて間代だけ七円食膳は別に払ふと言ひて……かくの如き濫費の金はいづこより持来りしものか。その源は良民の税より出でたるものと思へば世の中は闇なりと、……外国人には能ふかぎり物を高く売りて外貨獲得の効果を収めんとしつつあり。……現代日本人の愛国排外の行動はこの一小事を以て……八紘一宇などいふ言葉 お臍が茶をわかすはなし
＊十一月念七。
西園寺公及雨声会の事につき……斎藤海軍大将 二月内乱の時叛軍のために惨穀せられし事は世の周知する所。老公もまた襲撃せらるべき人員の中に……しかして叛乱罪にて投獄せられし兇徒は当月に至り一人を余さず皆放免せられたるに非らずや。二月及五月の叛乱は今日に至りてこれを見れば叛乱にあらずして義戦 彼らは兇徒にあらずして義士……怪しむべきは貫下の軍人政府が老公の薨去を以て厄介払ひとなざずかへつて哀悼の意を表し国葬の大礼を行はむとす。人民を愚にすることもまた甚しといふべし。
121 十二月三十一日。
……今年は思がけぬ事ばかり多かりし年なりき。米屋炭屋、菓子など商ふものまた金物木綿などの問屋、すベて手堅き商人は商売行立ちがたく先祖代々の家倉を売りしもの尠からざるに、雑誌発行人芝居興行師の如き水商売をなすもの一人として口腹を肥さざるはなし。石が浮んで木の葉の沈むが如し。この度の変乱にて戊辰の革命の真相も始めて洞察し得たるが如き心地せり。……彌次喜多の如く人生を行くべし
昭和十六〔１９４１〕年
123 正月一日
むさくるしく不便なる自炊の生活 哀愁の美感に酔うことあり。
＊＊かくの如き心の自由空想の自由のみはいかに暴悪なる政府の権力とてもこれを束縛すること能はず。人の命のあるかぎり自由は滅びざるなり。
124 一月十日 遺書
125 一月廿五日。
人の噂にこの頃東京市中いづこの家にても米屋に米すくなく、一度に五升より多くは売らぬゆゑ人数多き家にては毎日のやうに米屋に米買ひに行く由なり。パンも※饂飩も 政府はこの窮状にもかかはらず独逸の手先となり米国と砲火を交へむとす。笑ふべくまた憂ふべきなり。白米不足の原因はこれを独逸に輸出するためなりといふ。……
129 二月三日
朝鮮の踊り子 日本の流行歌 公開の場にて朝鮮語 民謡 厳禁
言ひがたき悲痛の感 彼国の王は東京に幽閉せられ その国民は祖先伝来の言語歌謡を禁止せらる。悲しむべきの限りにあらずや。余は日本人の海外発展に対して歓喜の情を催すこと能はず。むしろ嫌悪と恐怖とを感じてやまざるなり。余かつて米国にありし時米国人はキューバ鳥の民のその国の言語を使用しその民謡を歌ふことを禁ぜざりし事を間きぬ。余は自由の国に永遠の勝利と光栄とのあらむことを願ふものなり。
＊ 二月念四。
怨嵯の声かくの如き陋巷にまで 軍人執政の世もいよいよ末近くなりぬ。
128 三月初三。
鹿沼町の女 只今は蠣殻町の待合ＸＸといふ家 住込みの女三、四人 いづれもいそがしく一日ならし二拾円のかせぎ この待合の客筋 警視庁特高課の重立ちし役人、また翼賛会の大立物あれば手入れの心配は決してなしと語れり。新体制の腐敗早くも帝都の裏面にまで瀰漫せしなり。痛快なりといふべし。
133 四月九日
パーレーの『万国史』 少年の頃 教科書 米国人の米国を愛する誠実なる感情靄然として人を動かすものあり。……日本にはかくの如き出版物殆どなし。
135 四月二十九日
噂のきき書 出征軍人の妻または戦死未亡人に関する醜聞 新聞雑誌に記載することを禁ぜらるるを以てかへってこれをよい事にして…………
137 芸能文化連盟
〔欄外朱書）側衛トハ見馴レヌ語ナリ。何人ノ作リシモノニヤ。
138 5月11日 一 角力取の家にはいづこも白米無尽蔵 軍人の贔屓客より貰ふなりといふ。
一 五月八日戦死兵士遺族九段招魂社 偕行社にて出したる料理は西洋食にて肉多がりし由
……附近の消防暑にては火事と思ひ 市中の夕刊新聞 招魂社招待の饗宴当日の事はその場所を間はず一切報道する事を禁ずる由軍部より差止めになりたりといふ。
一 築地辺の待合料理店 軍人のお客にて繁昌一方ならず。公然輸出入禁止品 暴利を貪りて売るもの……待合のかみさんもこの頃は軍人の陋劣なるには呆れ返つてゐる由なり。
一 俳優尾上菊五郎の伜菊之助徴兵検査の際内々贔屓筋をたより……一時は入営せしがその翌日除隊 菊五郎はもう大丈夫と見て取るや杏や、倅の除隊を痛歎し世間へ顔向けが出来ぬと言ひて誠しやかに声を出して泣きしのみならず聯隊長の家に至り不忠の詫言をなしたり。聯隊長は何事も知らざれば菊五郎は役者に似ず誠忠なる男なりと、これまた嘘か誠か知らねど男泣きに泣きしといふ。
一 大谷竹次郎の倅龍造とやらいふ者、これは父竹次郎その身分を利用し余り諸方へ倅不合格になるやうに頼み廻りしため検査の時かへつて甲種合格となりたりといふ。
＊ 五月十二日。
……市中の煙草店煙草いよいよ不足……但し軍部に関係ある者また新橋の花柳界は不自由することなしといふ。余が机上には両三年前買置きたるリッチモンドの罐も今は僅に一個を残すのみとなれり。
141 六月十日
芝口の牛肉店 今朝 牛肉難肉いづれも品不足のため毎月四回休業。なほ午後は毎日閉店する由女中の談なり。
＊六月十一日。芸人某徴兵 戦地に行くとて自ら国旗を購来り、武運長久の四字……この語も今は送別の代用語になりしと思へば深く思考するにも及ばざれば直に書きてやりぬ。義勇奉公などいふ語も今は意義なきものとはなれり。凡て人間の美徳善行を意味する言語文字はその本質を失ひて一種の代用語となり終れり。あたかも人絹スフの織物の如し。
＊六月十三日（欄外朱書）去年コノ日巴里独人ノ侵略二遇フ。
＊六月十五日 喜多村ｲﾝ〔竹かんむりに均〕庭が『ｲﾝ庭雑録』 其蜩の『翁草』につきて
……平生の事は随分柔和にて遠慮がちなるよし。但筆をとりてはいささかも遠慮の心を起すべからず。遠慮して世間に憚りて実事を失ふこと多し。翁が著す書は天子将軍の御事にてもいささか遠慮することなく実事のままに直筆に記し、……
余これを読みて心中大に慚るところあり。……余は万一の場合を憂慮し、一夜深更に起きて日誌中不平憤懣の文宇を切去りたり。また外出の際には日誌を下駄箱の中にかくしたり。今『翁草』の文をよみて慚愧すること甚し。今日以後余の思ふところは寸毫も憚り恐るる事なくこれを筆にして後世史家の資料に供すべし。
日支今回の戦争は日本軍の張作霖暗穀及ぴ満洲侵略に始まる。日本軍は暴支膺懲と称して支那の領土を侵略し始めしが、長期戦争に窮し果て俄に名目を変じて聖戦と称する無意味の語を用ひ出したり。欧洲戦乱以後英軍振はざるに乗じ、日本政府は独伊の旗下に随従し南洋進出を企図するに至れるなり。然れどもこれは無智の軍人ら及猛悪なる壮士らの企るところにして一般人民のよろこぶところに非らず。国民一般の政府の命令に服従して南京米を喰ひて不平を言はざるは恐怖の結果……麻布聯隊叛乱の状を見て恐怖せし結果……忠孝を看板にし新政府の気に入るやうにして一稼なさむと焦慮するがため……元来日本人には理想なく強きものに従ひその日その日を気楽に送ることを第一となす……今回の政治革新も戊辰の革命も一般の人民に取りては何らの差別もなし。欧羅巴天地に戦争歇む暁には日本の社会状態もまた自ら変転すべし。今日は将来を予言すべき時にあらず。
＊ 六月十八日。町の辻々に江兆銘の名記したる立札 電車の屋根にも旗を出したり。汪氏の日本政府より支給せらるる俸給一年五億円なりといふ。
町の噂
芝口辺米屋の男三、四年前召集せられ戦地にありし時、漢口にて数人の兵士と共に或医師の家に乱人したり。この家には美しき娘二人あり。医帥夫婦は壺に入れたる金銀貨を日本兵に与ヘ、娘二人を助けてくれと歎願せしが、兵卒は無慈悲にもその親の面前にて娘二人を裸体となし思ふ存分に輪姦せし後親子を縛って井戸に投込みたり。かくの如き暴行をなせし兵卒の一人やがて帰還し留守中母と嫁とを預け置きし埼玉県の某市に到りて見しに、二人の様予出征前とは異り何となく怪しきところあり。いろいろ様子をさぐりしがその訳分明ならず、三月半年はど過ぎし或日の事、嫁の外出中を幸その母突然帰還兵士に向ひ、初めは遠廻しに嫁の不幸なることを語り出し、遂に留守中一夜強盗のために母も嫁もともども縛られて強姦せられしことを語り災難と思ひ二人の言甲斐なかりしこと許せよと泣き悲しむところヘ、嫁帰り来りてこれも涙ながらにその罪を詑びたり。かの兵士は漢口にて支那の良民を浚辱せし後井戸に投込みしその場の事を回想せしにや、はどなく精神に異状を来し、戦地にてなせし事ども衆人の前にても憚るところなぐ語りつづくるやうになりしかば、一時憲兵屯所に引き行かれ、やがて市川の陸軍精神病院に送らるるに至りしといふ。市川の病院には目下三、四万人の狂人収容せられゐる由。
六月二十日。
伊太利亜の友と称する文士の一団より機関雑誌押売の手紙来る。時局に便乗して私利を営むなり。本郷の大学新聞社速達郵便にて突然寄稿を請求し来る。現代学生の無智傲慢驚くの外なし。……余はかくの如き傲慢無礼なる民族が武力を以て隣国に寇することを痛歎して措かざるなり。米国よ。速かに起つてこの狂暴なる民族に改俊の機会を与へしめよ。
＊六月念一。
……下谷辺のある菓子屋にてその主人店の者に給金の外に慰労金を与へしこと露見し、総動員法違犯の語にて千円の罰金を取られし由。使用人に賞金を与へて罰せらるるとは不可思議の世の中なり。
六月念二
……芝口の金兵衛に至り夕飯を食す。煮肴あいなめを食す。魚介払底の時なれば珍味となすべし。……号外売独魯開戦を報ず。偶然菅原夫婦安東氏らに逢ひ八丁目千疋屋に入るに、九時峙閉店といふにやむをえず席を立ち、尾張町のブラヂルに入り笑語す。ここは十一時まで客を迎ふ。
148 7月24日 出征兵士 蒙古 シベリア 物資食糧の欠乏 人心恟々
＊7月25日 仏領印度と蘭領印度 欧州の戦乱に乗じたる火事場泥棒
＊9月初1 写真フィルム 煙草 鉄銅器 古道具屋に売るもの
＊9月初6 過般内閣総辞職
今日 革命 定業なき暴漢と不平軍人 朋党相より利権獲得にて富をつくりり成金との闘争 喧嘩の側杖を受け手迷惑するは良民 手堅き商人は悉く生計の道を失い威嚇を業とする不良民愛国の志土となりて世に横行す。されど暴論暴行も或程度に止め置くこと必要なり。牛飲馬食も甚しきに過ぐれば遂には胃を破るべし。隴を得て蜀を望むといふ古き諺もあり。志土軍人輩も今日までの成功を以て意外の僥倖なりしと反省し、この辺にて慎しむがその身のためなるべし。米国と砲火を交へたとへ桑港や巴奈馬あたりを占領して見たりとて長き歳月の間には何の得るところもあらざるべし。もし得るところありとせんか。そは日本人の再ぴ米国の文物に接近しその感化に浴する事のみならむ。即デモクラシイの真の意義を理解する機会に遭遇することなるべし。（薩長人の英米主義は真のデモクラシイを了解せしものにあらず。）
九月七日日曜 秋風涼掠爽。銀座夜歩。
街頭の集会広告にこの頃は新に殉国精神なる一文字を用したり。愛国だの御奉公だの御国のためなぞでは一向きき目なかりし故ならんか。
かく殉死せば残るものは老人と女のみとなるべし。呵々。
153 10月初６ 慰問袋
160 屠れ英米われらの敵だ進め一億火の玉だ→昔米英われらの師困る億兆火の車
１９４２年
167 3月8日 風聞録
一 土方与志中条百合子村山知義らは去年より市中各処の警察署に今なほ留置中なりといふ。
一 海軍士官 別府温泉 熱海の温泉宿
176 相模ケ原 土地 軍部
180 短篇小説『軍服』
１９４３年
183 〇犬の声 さびしさゆえか ///うたがいとさげすみの/この世をうしと……
正月19日
坊間流言 侵魯の独逸軍甚振るわず 又北阿遠征の米軍地中海より伊国を……願わくばこの流言真実ならんことを
189 3月初8 流言録
築地 待合 上海戦争の頃より 陸軍将校ら 東条大将 軍服のまま
築地二丁目に河庄といふ待合あり。おかみさんは大正の初頃浦子といひし新橋の妓なり。この待合上海戦争の頃より陸軍将校らの遊場となれり。塀外に憲兵の立番をなしゐる晩は軍人中にても大あたまの者攀柳折花（はんりゆうせつか）の戯（たわむれ）に耽る時なりといふ。今年三月一日は芸者買に二十割の税かかる最初の夜なるに、軍人の宴会あり。東条大将は軍服のままにて公然自働車を寄せたりとこれを目撃したるものの話をここにしるす。
192 菊池寛の設立せし文学報国会 会員名簿 無断 会長 会長 余の嫌悪する徳富蘇峰
193 山本大将の戦死 北海の孤島 日本兵士の全滅 一部の愛国者 楠公 戦死の弊害
198 忠孝及び貞操 人を陥れる 忠孝を道具 不忠者 関所の手形
七月初五。晴。午後土州橋注射。
冗談剰語
一東京市を東京都と改称する由。何のためなるや。その意を得がたし。京都の東とか西とかいふやうに聞えて滑稽なり。
一 日本人は忠孝及貞操の道は日本にのみありて西洋になしと思へるが如し。人倫五常の道は西洋にもあるなり。但しやや異なるところを尋ぬれば日本にては寒暑の挨拶の如く何事につけても忠孝々々と口うるさく聞えよがしに言ひはやす事なり。また恨みありて人を陥れんとする時には忠孝を道具につかひその人を不忠者と呼びかけて私行を訐（あば）くことなり。忠孝呼ばはりは関所の手形の如し。これなくしては世渡りはなりがたし。
一 日本人の口にする愛国は田舎者のお国自慢に異らず。その短所欠点はゆめゆめ口外すまじきことなり。歯の浮くやうな世辞を言ふべし。腹にもない世辞を言へば見す見す嘘八百と知れても軽薄なりと謗（そし）るものはなし。この国に生れしからは嘘でかためて決して真情を吐露すべからず。富士の山は世界に二ツとない霊山。二百十日は神風の吹く日。桜の花は散るから奇妙ぢや。楠と西郷はゑらいゑらいとさへ言つて置けば間違はなし。押しも押されもせぬ愛国者なり。
一 隣の子供の垣を破りておのれが庭の柿を盗めば不屈千万と言ひながら、おのれが家の者人の家の無花果を食ふを知りても更に咎めず。日本人の正義人道呼ばはりはまづこの辺と心得置くべし。
一 近頃の流行言葉大東亜とは何のことなるや。極東の替言葉なるべし。支那印度赤道下の群島は大の字をつけずとも広ければ小ならざること言はずと知れたはなしなり。
Greatestin the world などと何事にも大々の大の字をつけたがるは北米人の癖なり。
今時北米人の真似をするとは滑稽笑止の沙汰なるべし。
200 縁の下または庭上に穴 去年は押入にかくれよ 来年は 一定の方針なきは
202 8月29日 パーマネント
204 こうろぎ 悲しみ
209 瓦斯風呂 徴用令
211 鴎外の墓
219 今秋国民兵召集以来軍人専制政府の害毒
父も子も 祖先伝来の職業を失いて職工 子は兵卒 母は食物なく幼児の…… 今は勝敗を問わず唯一日も早く戦争の終結を待つべきなり。然れども余窃かに思うに戦争終結 政治は今よりなお横暴残忍となるべし 今日の軍人政府の為すところは秦の始皇帝の政治に似たり 文学芸術の撲滅 劇場閉鎖 債券を焼き私有財産の取上げをなさでは止まざるべし かくて日本の国家は滅亡するなるべし
１９４４年
221 一月初二
現政府の方針 一定せず 何を以て国是となすや 欧州中世紀の暗黒時代に…… もし成功すれば国家の衰亡に かくの如き愚挙 支那印度南洋の多民族を治め得べきものなるや 現政府の命脈長きに非ざるべし
222 お歌 老後戦乱の世に遭遇し独り旧廬に呻吟する時むかしの人の 涙ぐまるるまでに嬉しきものなり
223 現代日本のミリタリズムは秦の始皇坑儒焚書 軍人政治
227 オペラ館 7年の歳月 放蕩無頼の情趣を残せし最後の別天地
229 東京の上空 飛行機 騒音 得意満々たる軍人の愚劣
230 東亜共栄圏内に生息する鳥獣の惨状
燕よ。秋をまたで＊＊ 雁よ。秋来るとも今年は共栄圏内に来る莫れ。
231 戦争はいつまで続くにや。
来るぞ来るぞという空襲もいまだに来らず。国内人心の倦怠疲労今正にその極度に 世人は勝敗に関せず戦争さえ終局を告ぐれば国民の生活はどうにか建直るが如く……
１９４５年
260 5月初３ 新聞紙ヒトラー、ムソリニの二凶戦敗れて死したる由を報ず
261 8月15日 休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ。
283 9月28日
天皇陛下 マカサ元帥 会見 敗戦国の命運 独逸模擬政体の成立して、賄賂公行の世を憤りし人々 この頃のような奇々怪々の世の中 人の頤を解くこと浅草のレビュウも能く及ぶところにあらず、角ある馬、鶏冠ある烏を目にする時の来るも遠きにあらざるべし。これ太平の民の知らざるところ、配給米に空腹を忍ぶ我ら日本人の特権ならんと笑ひ興ぜしことあありしが、事実は予想より更に大なりけり。我らは今日まで夢にだに日本の天子が米国の陣営に微行して和を請い罪を謝するが如き事のあり得べきを知らざりしなり。……幕府瓦解の時には 身命を犠牲にせんとする真の忠臣ありしが 昭和の現代においては 余は別に世のいわゆる愛国者という者にもあらす、また英米崇拝者にもあらず。惟虐げらるる者を見て悲しむものなり。強者を抑え弱者を救けたき心を禁ずること能ざるものたるに過ぎざるのみ。
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